さて、前回に続き、エヴァ・バルトークの話の続きです。今回は、この奇跡の本質部分について語ってみたいと思います。

みなさん、奇跡というものをどのようにお考えでしょうか?まず、起こりえないことが神の恩寵により人に与えられるというのが奇跡であると私は理解しております。ですから、スブドに入り、ラティハンをしたからといって、エヴァのような奇跡的治癒が起こったりするとは限りません。否、困難な状況にある人がラティハンによる浄化の過程でさらに困難な事態に直面することも多々あります。奇跡の泉として有名なカトリックの聖地のルルドの泉の水を飲んで病気が治癒したという話も聞きますが、ローマ教皇庁の調査によれば、奇跡的な完全な治癒が起こったのは確率としては非常に低く、何十万、何百万に一件という話です。カトリックで大事にしているのは奇跡そのものよりも、ルルドの泉を通じ、聖母マリアに神への取次ぎを願い、完全に自分の運命を神に委ねる勇気を与えられるということにあると個人的には考えています(私もカトリックで、ルルドの水はいつも飲んでいますが、この話はまた後で)。

同様に、エヴァのケースも神の恩寵なのです。望んで得られるものではありません。このような奇跡に魅せられてスブドに入会するとしたら、皆さんはスブドに対して幻滅を感じる可能性が非常に高いと申し上げましょう。

次に、パ・スブーが、エヴァの治癒に関する説明を含んだ公式の話をしています。その一部を下に掲載いたします。スブド理解の一助となると思います。

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私たちが神に明け渡すものとは何でしょうか?それは私たちの富でも、私たちが愛するものでも、また、私たちが所有しているものではありません。なぜなら、神は、そのようなものを必要としないからです。私たちが明け渡さなければならないのは、私たちの思考、感情、欲望なのです。なぜなら、それらは、私たちが神に近づくための障害となる道具だからです。

私たちが自分自身を神に明け渡すことができ、神をほかの何よりも、私たち自身よりも愛することができるならば、神はいつも私たちとともにいる、とイエス・キリストが言った意味はこのことなのです。これは、私たちが感情や感覚によって持つ愛情は、本当の神への愛に近づく妨げとなるものだということを意味しています。なぜなら、このような外側の愛は、私たちが愛していると信じたいものに対する愛にすぎないからです。しかし、私たちが神に対して持たなければいけない愛とは、これよりも大きなものなのです。

預言者ムハンマドには、「神は何よりも前から存在し、神はすべてが破壊された後も存在する」という啓示が与えられました。神はどんな遠くにあるものよりも遠くにあり、どんな深いところにあるものよりも深くにあるのです。これは、神は本当にすべてのものを創造したということを意味し、神がすべてを創造したがゆえに、すべてを気にかけてくださるのです。

また、神は、形なく、言葉なく、国もなく、色もないとも言われています。というのは、たとえば、神が国を持っているとすれば、すべての国が1人の神を持つことでしょうから、神は、1人以上いることになるでしょう。また、もし神が色を持っているとしたら、すべての色に神が必要となりますので、この場合も、神は1人以上いることになるでしょう。ですから、これが「神は1つであり、すべてのものの主人である。」ということの意味なのです。

また、神は道具も材料のなく創造しました。もし人が何かを作りたいと考えたなら、たとえば、テーブルを作るには、木材が必要です。また、釘、ハンマーやほかの道具が必要です。また、原子爆弾を作れるようにするには、物質を原子にまで分解する道具がさらに必要となります。しかし、神の場合はまったく違います。神の働きには、材料も道具も必要ないのです。人が神の意図がどこにあるのかを理解し、知るには、神に完全に自分を明け渡さなければならないというのが当然の帰結となるのです。なぜなら、人間自身の考えや気持ちや欲望では、神を見出すことが決してできないからです。考えや気持ちや欲望を使うことなく、自分を神に完全に明け渡すことでのみ、人は、神の力と接触できるのです。

これが私たちが霊的訓練で行っていることなのです。つまり、私たちは、自分自身を完全に明け渡し、考えや気持ちや欲望を使わず、神が送ってくださるものを受け入れ、受け取ることなのです。ですから、スブドは、自分自身のため、この世と来るべき世のために神の意志を実現し、神の意志を実行することで、人が生きるための方法を示す象徴にすぎないということを理解するでしょう。

それゆえ、スブドの霊的な訓練には、教えがありませんし、学んだり、しなければならないことは何もないのです。なぜなら、私たちに必要なことは、完全な明け渡しだからです。神への道を知っていると主張する人は、本当は神の贈り物を受け取ったことがなく、その贈り物を期待している人なのです。

私たちにできることは私たち自身を完全に明け渡し、神が送ってくださるものをただ受け入れ、受け取るだけなのです。これは、まさにすべての預言者が言っていた「完全に自分自身を明け渡し、神に完全に服従しなさい。そうすれば、神はあなたを気にかけてくださり、導きを与えてくださいます。」ということにほかなりません。このような霊的訓練では、私たちは特に何も期待しません。私たちは自身に対していかなるイメージを持つこともなく、ただ神が送ってくださるものを受け取るだけなのです。

この聖なる力、訓練の間に私たちの中に働く力は、各々の人の内にすでに存在するものをもたらすのです。たとえば、もし、人が大きく、力強い声を持っているのならば、その人は、非常に大きく力強い音を発するでしょう。しかし、そのように大きな声を持っていない人は、もっとソフトな音を発するでしょう。こうしたことが私たちの身体の各部、私たちの存在の各部に行きわたるのです。ですから、2人の人のラティハンは、それぞれ異なるのです。人が必要とし、受け取るものはみな、他の人が必要とし受け取るものとは異なります。これがラティハンの間にどのように振る舞うべきか、どのような規則も方法も与えることのできない理由なのです。なぜなら、これは各人の個人的な事項であるからです。

誰もが自身のための神に至る道を見い出そうとしています。そして、ある人にとって正しいと思われる道は他の人にはまったく間違った道であるということもあるのです。ムハマド・スブーに従ったり、ムハマド・スブーのようになろうと考えてはいけません。神へ至る道を見出そうとするならば、あなたはあなた自身となり、自分の内部自我を発達させなければなりません。なぜならば、あなたは自分自身で神に至る道を見出さなければならないからです。あなたは他の人に従ったり、真似をしてはいけません。なぜならば、自分自身の神へ至る道を見出さなければならないからです。普通は、先生がいて、先生が得たものを得るために彼がしたことと同じことを弟子に教えるものです。しかし、これはまったくの間違いです。なぜなら、先生と弟子との間だけではなく、同じ親から生まれた2人の兄弟でもすでに大きな違いがあるからです。外見だけではなく、性格や全存在そのものに違いがあります。ですから、ある先生の神を見出す道というものが必ずしもその生徒にとって正しい道であるとは限らないということが、今ではあなたにも確かにわかることでしょう。

バパ(*1)はこのように言います。あなたを神に導くのは神ご自身であり、霊的訓練で実際に起こることは、あなたを真の内部自我、つまり本当の「私」に導くものであるということなのです。恐れてはいけません。また、心配してもいけません。なぜなら、あなたにラティハンでもたらされるものは、あなたの中にあるものだけであり、あなたの内部自我からくるものです。ラティハンで起こるものは本当のあなたなのですから、心配したり、恐れたりする必要はないのです。

スブドでは、宗教の違いに差別はありません。なぜならば、個人にもたらされるものはすでにその人の内にあるものだからです。ですから、もしある人がクリスチャンでしたら、その人は自分自身のうちで真のキリストと出会うことでしょうし、仏教徒であれば、その人のうちで真のブッダに出会うことでしょうから。同じようにイスラム教徒であれば、自分自身の内にムスリムと出会うことでしょう。そして、あなたが本当に自身の内部自我を知れば、何をしていても聖なる力に導かれることでしょう。なぜならば、この聖なる力は、あなた自身を通して、あなたの内に働き、オフィスでや外で働いていても、車を運転していても、他のことをしていても、常にあなたの内で働く神の力があなたを導くでしょうから。

このようなわけで、何かに取り掛かる前に、「ビスミラー・イラフマーン・イラヒーム(慈愛あまねく神の名において)」と言うべきであるとクラーンで言われていることは真実なのです。これは、あなたが神の導きに従い、神があなたに望むことは何でもするということを意味します。 また、あなたは、何かをするのに性急になり、その後で、神を思い出し、自分のしたことを後悔するということがないように、という意味でもあります。あなたがなすことの前に神がいれば、それがなすべき正しいことにちがいありません。そして、これはまた、クリスチャンが食事の前や就寝前に祈りをするときになされることの意味なのです。なぜなら、これもまた、あなたが神の導きなしに何かをしないほうが良いという意味でもあります。なぜなら、もしあなたが何かを行うに際して神を忘れてしまえば、何かうまくいかないときに神の助けを受けられないからです。神の全能の力が私たちの内部だけではなく、すべての被造物、すべての被造物の外側にさえ働いているということを私たちに確信を与えてくれるのは、私たちが見るこの力だけなのです。

これが霊的訓練において、私たちが自分の宗教に害を及ぼさない理由なのです。なぜならば、私たちが考え実行することは、神の意志だけだからなのです。ですから、宗教を持つ人がラティハンで自分の宗教の教えと合致した、また、自分自身の内部にあるものと合致した体験をすることになります。

あなたたちの中には、バパがどこでこのようなものすべてを得たのかと質問する人もいるかもしれません。バパは、あなた方と同じような状況にあったとき、これを受けました。バパは働いており、オフィスでまだ自分の仕事をしていました。バパは、まだオフィスで自分の仕事をしており、また、しなければならない他のことをしていました。そして、そのことが好きでさえありました。突然、すべてが停止しました。バパの思考は働きを止め、感情も働きを止めbbbbb、欲望の働きが止まり、それから皆さんがラティハンで受けているものを受けたのです。バパは知恵を探し求めませんでした。バパには、グル(導師)もいませんし、先生もおりません。バパはただそれを受けたのです。そして、それが「ムジザトウラ」、つまり聖なる賜物と呼ばれるものです。これは、人がそれを探し求めていないときにのみその人に来るものであり、その賜物を受ける用意ができているときに、神がその人にこの賜物を与えるのです。

あなたたちはエヴァ・バルトークの治癒の話を聞いたことがあるかもしれません。彼女を助け、治したのはバパではありません。バパは、彼女に神をどのように礼拝するか示したのです。神が彼女が良くなることを意志したことは彼女にとって幸運なことでした。そして、彼女は回復し、すべてが彼女にとってうまくいきました。しかし、彼女を治したのはバパではありません。バパは、単に彼女に礼拝の方法を示したにすぎません。

人の治癒については、その人と神の間の事柄にすぎません。他のだれもそれにかかわることはできません。

(*1) パ・スブーはトークの中で自分自身のことをバパと呼びます。

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前置きのほうがずっと長かったと思いますが、これはスブドというものが何であるかを端的に説明していると思います。

スブドの本質は、神に対する完全な明け渡しであり、その結果として、神が意志すれば、奇跡的な治癒もありえます。また、逆にこの世的にみれば、もっと困難な状況が起こるかもしれません。病気が治癒せず、死に至る場合もあるでしょう。しかしながら、私が思うには、これらは神の被造物に対する愛からくるもので、一見、難事に見えても、それは神の私たちに対する愛であると思います。大切なことは、神を完全に信頼すること=神にすべてを明け渡すこと、にほからないと思います。

(文責:サイト管理者)